日東社 100年に向かう物語 TOP 日東社 100年に向かう物語 ― 3代目 多角経営に踏み切った、時代を読む目を持つ男 ― 貞三の息子、大西 (あきら)が入社したのは1957年。23歳のころであった。 自社を知らずに経営ができるか、とばかりに、まずは現場見習い。製造技術を身につけたら営業畑へ。 自社の業務を全般的に習得しながら、後継者として己を磨いていった。 父・貞三が倒れた当時は30歳。専務を勤めていた。 以後、病床の父に代わり、 が経営の指揮をとるようになる。 の強みは、市場調査など素早い情報収集力。そしてそれを読み解き、経営判断に活かす力であった。 主軸産業であるマッチだけでは、この業界が下火になった時、生き抜くことができない その危惧を、 は常に抱えていた。 そこでまずは、オーダーマッチのさらなる進化、そして印刷分野への進出を見据え、「日東紙工」という会社を設立。 紙器の生産力と技術力を高めた。 そして、1970年、日東社燐寸製造所という社名を、現在の「日東社」に改めた。 多角経営への第一歩であった。 マッチ生産設備の充実や、ワックスマッチ・プラマッチといった新しいマッチの開発を行う一方、 は腕利きの外部コンサルタントに調査を依頼した。 日東社は、これからどう業種を転換すべきか? その報告書を参考に、今の日東社の事業分野が次々に芽生えることとなる。 その3年後、1970年。オイルショックがマッチ業界を直撃した。 電力不足や物価上昇などで、経済は不安定となった。 の危惧通り、「マッチだけでは立ち行かない時代」が近づいていた。 オイルショック後も不況が続く中、1975年頃からは、ライターが普及し始めていた。 使い捨てライターに、マッチの需要は食われるようになった。 「ライターが何んだ! 火をつけるだけがマッチではないのです」 これは、1976年の、当社の広告のキャッチコピーである。 社内には、ライター事業への進出に反対するものが多かった。 おれたちは高品質なマッチ作りに命をかけてきた! ライターなんて敵だ! 負けてなるか! マッチは日東社の芯に燃える灯り。マッチへの熱い想いは、 も同じだった。 だが、 は冷静にライターの将来性を見抜いていた。 「きっとライターは伸びる。マッチで培った技術を生かして、ライターの名入れをやろう」 そう社員を説得し、 はライター事業進出に踏み切った。 そして、予想通り名入れライターは大きな市場となり、現在も生産が続いている。 ライター、紙おしぼり、ティッシュペーパー・・・ 日東社では、こうした新製品は当時、基本的に社外から仕入れたものに名入れ(店名や広告の刷り込み)を行って販売していた。 仕入れでの販売ノウハウを4年間学び、 は新たな一歩を踏み出した。 「これからは、自社での製造販売も行う。」 はポケットティッシュの製造工場設備を導入し、一貫生産体制を一気に確立した。 こうして、「SP(セールスプロモーション)用品メーカー」という、日東社の新しい顔が生まれた。 の事業拡大は、全く畑違いの分野にも及んだ。 自社工場の敷地には、商品の転換等で使われなくなった場所が存在した。 これを活用するべく、テニスクラブをオープンしたのである。 現在、この事業は「ノアインドアステージ」として、全国に22のテニスクラブを運営するまでに成長している。 は語る。 「これだけなら損してもいいそれを考えておけば、未知の分野にも臆せずチャレンジできる。だめなら退却すればいい」 あぶらとり紙、広告カイロ、医療用ウェットタオル・・・日東社のチャレンジは続いている。 これからも、彼ら3人の意思を継ぎ、日東社は未来へのチャレンジを続けていく。 これまでの100年を礎に、これからの100年へ。 ※ こちらのバナーから、時代ごとに読むこともできます。