日東社 100年に向かう物語

代表取締役 大西雅之

わたしたち日東社は、1923年にマッチ製造会社として創業。以来 今日まで、点火器具や紙工品を中心に日々の生活シーンに欠かせない、便利で夢のある製品を製造販売してまいりました。

とりわけ、当社の特徴は 日本で初めてオーダーマッチを世に送り出したことでもお分かりいただけますように、さまざまな製品をいち早くサービスプロモーションツールして開発することです。

創業以来一貫して時代のニーズを先取りし、絶えず新たな付加価値を求めてまいりました。特にサービスプロモーション関連商品の場合、より高い品質を創り出すだけではなく、消費動向を敏感にキャッチする感度のよさ、戦略的マーケティングに基づいた的確な提案力、市場のウォンツをすばやくフィードバックして商品化する開発力など、幅広い努力と能力が求められます。

当社は今後も 日々研鑽を重ね、サービスプロモーション関連商品のクリエイターとして独自の地平を切り開き、暮らしに夢を与え、共感いただける商品作りにまい進してまいります。

日東社 100年に向かう物語

第1章 廣松 ― 初代 日東社を創った男 ―

現在、日本のマッチの半分は、
兵庫県姫路市で作られていると言う。

そんなマッチのメッカ 姫路市白浜地区で、
草創期にマッチ関連事業を始めた28歳の男…

それが日東社創始者
大西廣松(ひろまつ)である。

「いつかおれのマッチ工場を作ってやる」

そんな野心を胸に、廣松は
「マッチの箱」などを製造する工場を始めた。

1900年のことであった。

17年がたち、廣松は小箱づくりのノウハウを
しっかりと身につけていた。

そして、第一次世界大戦が始まって3年後の1917年、
廣松は気の合った同業者と共同出資で
「山陽燐寸(さんようマッチ)製造所」を設立した。

「おれのマッチ工場」の夢は、着実に近づいていた。

大戦中、ヨーロッパのマッチ生産は減少。

それにより日本のマッチ輸出量は
大きく増え、マッチ業界は
黄金時代を迎えていた。

廣松たちの山陽燐寸製造所も
その波に乗り、業績を上げていた。

当時、最大の輸出先は中国。

中国国内では、
マッチがほぼ生産されて
いなかったのである。

だが、風向きは変わった

中国がマッチを自国内で生産するようになったのだ。

また、減少していたヨーロッパのマッチ輸出量も、
第一次世界大戦後再び増加した。

そして1923年、関東大震災が起こった。

国内の主な消費地である関東への輸送が困難になった。

マッチや小箱の材料価格も高騰した。

国内外での逆風に、マッチ業界は大打撃を受けた。

山陽燐寸製造所も例外ではなく、工場は閉鎖された。

会社設立5年目のことであった。

しかし、廣松はあきらめなかった。

閉鎖された山陽燐寸製造所の、
的形(まとがた)工場を借りて、
自らの会社「日東社燐寸製造所」を
作ったのである。

おれのマッチ工場を作る

1923年、大西廣松51歳。その夢はこうして達成された。

そして、ここが日東社の原点となった。

2年後、廣松の息子である
貞三(ていぞう)が入社し、
父の右腕として働き始めた。

楽な時代ではなかった。

それでも二人は懸命に働いた。

このころ、国内マッチ業界は大きく揺れていた。

海外市場において、日本のマッチは駆逐された。

また、国内にも海外資本が入り、価格競争が激化した。

海外資本に勝つには、
小さな各マッチ製造社がそれぞれ戦うのではなく、
合併して資本力を大きく高めるしかない

大きな合併の波が押し寄せた。

工場を閉鎖していた山陽燐寸製造所にも、
合併論が吹き荒れた。

この工場を借りて日東社燐寸製作所を運営していた廣松は、
合併に強く反発した。

この3年前の1927年、
20歳の息子・貞三は、
幹部候補生として戦地に赴いていた。

「的形工場は、おれの個人経営。
 息子がおれの跡を継ぐんだ」

この工場を、
貞三に残したかった。

「おれの工場」を息子に残したい。
夢を次代につなげたい。

しかし、廣松の想いは、
過半数の株主が合併に賛成したため、潰えた。

「合併しても、今まで通り工場は貸す」
その言葉を信じ、合併後も廣松は全力で工場を経営した。

そして、戦地から息子が戻るのを待った。

ところが、合併から数か月たったある日。
突然、廣松に工場の明け渡し要求が突きつけられた。

当初の約束と違う!
今まで通り的形工場を貸してくれると言っていた!

そんな契約は結んでいない。
契約書があるなら見せてみろ。

…書面では、その約束は残されていなかった。

廣松は心労から病に倒れ、
日東社燐寸製造所は閉鎖されたのであった

第二章 貞三編へ